ボードゲームにおける最善手問題とメタ最善手問題

 ひところ、自分の求める面白いボードゲームがどういうものかを見失いつつありまして、面白いと確かに知っているゲームでも遊びたいと思わなかったり、未プレイのゲームを見ても面白そうに思えなかったりしていました。どうやら、いろんなゲームが単調に感じられてしまっていたようです。その頃に考えたことです。


 ここでゲームの単調さというのは、当たり前ですが行為自体の単調さを意味しません。囲碁などは、光景としては石が交互に置かれるだけですが、プレイヤーの主観としては単調どころではありません。これは、プレイヤーが頭を絞って考えながらプレイしているからです。
 では単調なゲームとはどういうものかというと、それはプレイの一手一手に考えるべきことが特にないゲームです。いわゆる「作業感」があるゲームと言ってもいいでしょう。いま次の一手としていくつか選択肢があるが、どれを選べばよいかが分かりきっている、というようなゲームはプレイしても楽しくない。
 ということはつまり、「最善手があるゲームは楽しくない」のです。
 新しいゲームを遊んで、最初は結構面白かったのに、何度かやるとつまらなくなるというのはよくある経験ですが、これは最初はわからなかった最善手がわかってしまうからだと考えればよく説明できます。

 しかし、「最善手があるゲームは楽しくない」というのは、実はかなり驚くべき原則です。

 なぜなら、「あらゆるゲームには最善手がある」からです。

 というか、ここでは最善手をそのようなものとして定義します。逆に言えば、最善手が存在しないことはありえない、と考えます。例えば、じゃんけんというゲームでは、グーを出す選択肢とチョキを出す選択肢とパーを出す選択肢が、最も勝つ確率が大きい手段、すなわち最善手です。この三つの手段が勝利につながる確率は等しいので実質無意味ですが、最善手は確かにあると考えることができます。もちろん、もっと複雑なゲームでは、じゃんけんとは違って、意味のある最善手が存在します。

 あらゆるゲームには最善手があり、最善手があるゲームは楽しくないのなら、あらゆるゲームは楽しくないのでしょうか。そうではないと思われます。この問題(最善手問題と仮に呼びます)が回避されるパターンはいくつかあります。