RPGマンガ『ナツノクモ』のこと

 『ナツノクモ』というマンガを知っていますか? このページは、非電源ゲームを扱うのが本来なので、マンガの紹介などはまあお門違いです。しかしそれもマンガのテーマによってはOKかも知れません。このマンガのテーマは……ネットゲームです。だめじゃん!
 にもかかわらず、強引にこのマンガの話をしようと思います。これは凄いマンガで、そしてその知名度は低すぎると思うので。そして、ネットゲーマーだけでなく、TRPGのプレイヤーなら読んで損はないと思うので。
 ついでにぶっちゃけた話をすると、サークルの読書会でこの本を取り上げたときのレジュメの文章が使いまわせるので(ぶっちゃけ過ぎ)。(なので下の文章はTRPGのプレイヤー“ではない”読者を想定して書かれています)
 軽く紹介すると、このマンガは、近未来のバーチャルなネットゲームを扱っています。作中の展開の99%はゲーム内の出来事で、オフラインの描写はほぼありません(笑)。たいへんに吹っ切れてます。
 下の文章は、単行本の1巻の1〜3話を念頭に置いて書かれてます。連載はこれを書いてる時点でまだ続いてます(今月はガウルとクロエがタッグを組んでるところ)。小学館IKKIコミックスで出てます。作者は篠房六郎という人です。
 ネタバレは(あまり)ないので、下の文章を先に読んでも(ほぼ)大丈夫です。

────ではどうぞ────

 ファンタジー、あるいはホラー、SFといった分野には、「日常の中の非日常」というテーマがあります。我々がよく知っている日々の生活に、何かしら異質なものが紛れ込んでくることによって生じる奇妙さがそこでは描かれます。この『ナツノクモ』という作品の素晴らしく斬新なところは、その作品世界が「日常の中の非日常」の綺麗な裏返しであるところです。『ナツノクモ』のゲーム世界は、現代よりはやや進歩した技術が想定されているとはいえ、まったく現実的な手段で生み出されています。「日常の中の非日常」の物語を読むとき、我々はそこにどれほど身近な世界が広がっていようが、そこはやがて異なる規則に支配されてしまうのだということを知っています。一方で、『ナツノクモ』においては、そこでどれほど非科学的で夢のような出来事が起ころうとも、それらはすべてまったく現実的な基盤に立脚したものなのです。そう『ナツノクモ』の物語は、ファンタジーではなく、空想的でさえないのです。このような感覚の物語は、ちょっと他に思いつきませんが、TRPGのリプレイを読む感覚が近いかもしれません。
 そう、やはり、『ナツノクモ』の与える特異な読書感覚はロールプレイングゲーム(以下RPG)というものと切り離せないようです。
 問題は、RPGとは何かということです。今でこそ、RPGという言葉はコンピューターゲームの一ジャンルのように考えられていますが、本来のRPGとは複数人で遊ぶものであって、一人一人のプレイヤーが役割を受け持ち、それを演じながら即興演劇のように進められていくゲームです。ルールのあるごっこ遊びとよく言われます。その名のとおりそれはゲームであって、つまり遊びであるわけですが、同時にそれは遊び以上の何かでもあります。
 なぜならそれは役割を演じるゲームであり、自分ではない何かになれるゲームだからです。その起源においては賽子を振りながら洞窟を探検し、怪物を倒して金貨を集めるだけの遊びであったRPGは、いまやプレイヤーにもう一つの人生を生きることを可能にするまでになりました。毎週末に友人と集まってRPGを遊び、ウィークデイとはまったく違う世界での生活を積み重ねているという人は現在でも数多くいます。
 もちろんRPGというものの起源はコンピュータとは無縁のものでした。そして実は、もう一つの人生を生きるのにはそれで十分だったのです。コンピューターゲームと化すと同時に一人遊びのゲームとなったRPGは、インターネットの普及によって再び多人数で遊ぶ本来の姿を取り戻しました。ネットゲームはRPGに革命的な何かをもたらしたとも言えますが、真実はきっとそうではないのでしょう。おそらく、それはただのちょっとした技術の進歩にすぎないのです。
 変化した点があるとすれば、ネットゲームはそれがRPGであることを意識されにくいということが言えるでしょう。一人用のコンピューターRPGをやりなれていて、自宅のPCからただコンピューターゲームを楽しむつもりでネットに接続するプレイヤーたちは、自分がロールプレイを始めていることに気付きさえしないかもしれません。彼らはただゲームを楽しむつもりなだけです。ですが、生身の自分ではない何かとして、他者と会話を繰り返すうちに、キャラクターはプレイヤーのそれとは異なる独自の人格を否応なく持ち始めることになります。プレイヤーは、自分の遊びが、本来の己の人生と並行するもう一つの人生を生み出していることに、あとから気付くことになるのです。
 ネットゲームが従来のRPGと大きく異なる点が一つだけあります。それはコンピューターゲームであるがゆえに、死を許容するのです。普通のコンピューターゲームならもちろんそれでいいわけで、ただ生き返ればいいのです。しかし、死を迎えるのが自分のもう一つの人生であったとすればどうでしょうか。ここで、従来のRPGとネットゲームは分かれるのだと思うのです。従来のRPGでは、自分の分身が死ぬのは文字通り半身が削られるような体験にもなりえます。しかしてネットゲームでは、それでもやはり、ただ生き返ればよいのです。この違いは、ネットゲームがコンピューターRPGから発生したという文脈によって生じた、文化的な認識の差異でしょう。それはもともと、生き返ることができる世界の人生なのです。ならばネットゲームでの死は別になんでもないことなのでしょうか。そうではないと思われます。それはやはり死ではあるのです。それは、人類が手に入れた新しい種類の“死”なのだと言えます。そしてその“死”を巡っては、やはり新しい種類の“殺意”が生まれるのです。
 それが『ナツノクモ』のテーマであり。同じ作者の前作『空談師』のテーマでもあります。ネット上での死とはなんなのか、ネット上で殺すとはどういうことなのか。PKと呼ばれる、ネットゲーム中で他のプレイヤーを殺す人々、その行為。彼らは何を求めるのか、それは何を満たすのか。
 そして作者篠房六郎が投げかけるのは、ネット上での人生とは何であるのかという問いなのです。それは実人生と同等の、ときにはそれ以上の重要性を持ちうるのでしょうか。
 そしてこの、現実世界についてはその描写さえほとんど無い『ナツノクモ』で、作者はその問いにイエスと答えているのです。作中においてはゲーム中毒者を現実に引き戻す物語が語られるにも関らず、その答えは肯なのです。なぜなら、作中の人々が問題とし、矯正の対象として考えているのはゲーム中毒そのものではなくて、むしろゲームによる現実からの離脱だからです。あまりにゲームに没入することにより現実世界において問題が生じているからこそ彼らはゲームより引き離されねばならないのであり、逆に言えば、現実世界がそれを許す限りにおいては、どれほどゲームに没入しようとなんら問題はないということになります。
 おそらく次の疑問はこういうものです。ではゲーム世界と現実世界の関係をどう考えればいいのか、と。それに対する答えはショッキングなものとなるでしょう。そこに違いはなく、両者は実質上等質なものである、というのがそれです。いまやネットには家庭があり、人間関係があり、恋と友情と嫉妬と憎悪があり、商売と犯罪があります。現実世界に存在してネットにはないものを考えつく方が難しいくらいですし、もし誰かがそれを考え付いたとしても、それはさっそくネット上に再現されることになるでしょう。
 そこに自己があり、そこに他者があり、そこにコミュニケーションがある。そのような場があるならば、そここそが世界であり、そのすべてが現実なのです。それが、『ナツノクモ』の通奏低音となるテーマです。ゲームはゲームであると割り切ってしまうことは、むしろ何かを見失う事なのです。仮想現実という言葉はすでに意味をもたなくなりつつあります。バーチャルという概念こそがバーチャルなものなのです。

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