ボードゲームにおける最善手問題とメタ最善手問題

 ひところ、自分の求める面白いボードゲームがどういうものかを見失いつつありまして、面白いと確かに知っているゲームでも遊びたいと思わなかったり、未プレイのゲームを見ても面白そうに思えなかったりしていました。どうやら、いろんなゲームが単調に感じられてしまっていたようです。その頃に考えたことです。


 ここでゲームの単調さというのは、当たり前ですが行為自体の単調さを意味しません。囲碁などは、光景としては石が交互に置かれるだけですが、プレイヤーの主観としては単調どころではありません。これは、プレイヤーが頭を絞って考えながらプレイしているからです。
 では単調なゲームとはどういうものかというと、それはプレイの一手一手に考えるべきことが特にないゲームです。いわゆる「作業感」があるゲームと言ってもいいでしょう。いま次の一手としていくつか選択肢があるが、どれを選べばよいかが分かりきっている、というようなゲームはプレイしても楽しくない。
 ということはつまり、「最善手があるゲームは楽しくない」のです。
 新しいゲームを遊んで、最初は結構面白かったのに、何度かやるとつまらなくなるというのはよくある経験ですが、これは最初はわからなかった最善手がわかってしまうからだと考えればよく説明できます。

 しかし、「最善手があるゲームは楽しくない」というのは、実はかなり驚くべき原則です。

 なぜなら、「あらゆるゲームには最善手がある」からです。

 逆に言えば、最善手が存在しないことはありえない、と考えます。例えばじゃんけんというゲームでは、グーを出す選択肢とチョキを出す選択肢とパーを出す選択肢が、最も勝つ確率が大きい手段、すなわち最善手です。この三つの手段が勝利につながる確率は等しいので実質無意味ですが、最善手は確かにあると考えることができます。もちろん、もっと複雑なゲームでは、じゃんけんとは違って、意味のある最善手が存在します。

 あらゆるゲームには最善手があり、最善手があるゲームは楽しくないのなら、あらゆるゲームは楽しくないのでしょうか。そうではないと思われます。この問題(最善手問題と仮に呼びます)が回避されるパターンはいくつかあります。

■最善手はあるのだが難しくてわからない
 囲碁、将棋、チェスなどがこれです。よいと思われる無数の手があり、あるものは他よりもよいが、最もよい手はわからないこれらのゲームは、最も優れたゲームたちであると言えるでしょう。しかしその反面、このようなゲームは高度になりすぎてしまってプレイヤーを選ぶという問題があります。
 また、これらに匹敵するようなゲームを新たに作るのは非常に難しいという問題もあります。(囲碁、将棋、チェスらの影には、滅びて現代まで伝わらなかったであろう無数の民族学的なゲームがあったに違いないことを忘れてはいけません。)
 

■乱数を導入する
 これが、今回もっとも考えるべきところが多い難しいところです。そもそも、乱数を導入することは、最善手を回避していることになるでしょうか。
 結論から言うと、なりません。どれほど複雑なランダム要素があろうとも、勝利につながる確率のもっとも高い選択肢がつねに最善手です。
 理想的にはこの手法で「最善手はあるのだが難しくてわからない」の域に達することができる可能性がありますが、それは至難の業です。「最初は面白いんだけど繰り返し遊ぶうちに面白くなくなる」の、「最初」にあたる時期をどれだけ長くできるかの勝負になるでしょう。優れたものは他のものより長く流行するがやがては飽きられるというのは本質的に避けられない現象でしょう。
 一方で、乱数要素を高めてゲームの主眼にしてしまうという手法もありますが、それはむしろ次の「賭けを主眼とする」の分野でしょう。


■賭けを主眼とする
 言ってしまえばギャンブルです。ポーカーやダイスゲームなどがすぐ思い浮かびますが、ランダム要素のあるゲームならばなんであってもギャンブルの要素を持ち得ます。もちろんボードゲームではお金を賭けたりはしないわけですが、勝利の喜びを精神的な報酬であると考えることができます。上手くいく確率が高い選択肢よりも確率が低い選択肢を選んだ方が、勝利を掴んだときに報酬(喜び)が多い、というシステムは、最善手の意義それ自体を無化するので、最善手問題を回避する方法としては最も優れていると言えるかもしれません。
 ただし、この種のゲームは大きく好き嫌いが分かれます。好きな人ははまりますが、何が楽しいのかわからないと言う人もいるでしょう。(ちなみに、賭け事を好む人々は、勝利から快感を得ているのではなく、賭けてから結果が出るまでの間のドキドキする感じから快感を得ていると言われています)。ゲームというものの楽しみは最善手を探すところにあるというのもまた事実で、それとは別のところに楽しみを見出す遊びは、やはりゲームではなくギャンブルと考えるべきなのかもしれません。
 じゃんけんという遊びももっとも初歩的なギャンブルであると言えますね。


■意図的に最善手以外の選択肢を選ぶ
 これは、ゲーム自体ではなく、そのプレイヤーが取る対処法です。最善手を選ぶことは事務的な作業であり楽しくない、ならばそれ以外の選択肢をとればよい、というのはまったく合理的な解決と言えます。自分の達成目標を独自に定め、それを満たせるかどうかという自分との勝負をしたり、好奇心にまかせてどうなるかわからない手を打ってみたりです。ただしこの手法は、多人数でプレイするゲームにおいて、他のプレイヤーの楽しみを減じる可能性があります。


■ドラマ性をもたせる
 この手法は、最善手問題をそもそも問題視しません。明らかに最善手問題を抱えているようなゲームでも、単調さを打ち破る方法はあります。すなわち、ゲームにストーリーをつけることによって、それをドラマチックなものとするのです。RPG要素のあるボードゲーム、フィギュアやガジェットの多いボードゲームなどが、ストーリーを楽しみの主眼に置いたゲームと言えるでしょう。シミュレーションゲームがまさしく“シミュレート”を重視することや、ミニチュアゲームにおいては臨場感が素晴らしい魅力となることも、それらが出来事の展開のドラマ性を楽しむゲームだからでしょう。
 もちろん、TRPGに行ってしまうという選択肢も常にあります。


■メタ最善手問題
 以上のようなことをふまえた上で、まだ遊んだことのない新しいゲームを見たときに、
 「このゲームにも最善手はあるはずだ。それがわからない最初のうちはこのゲームは面白いが、わかってしまえば面白くなくなるだろう。確かにこのゲームは、最善手問題に対して対策をしているかもしれないが、囲碁将棋レベルのゲームであるとは考えにくいし、乱数は最善手問題を解決しないし、私はギャンブルは好きではないし、意図的に最善手以外の選択肢を選ぶつもりはないし、このゲームには魅力的なストーリーはないようだ。そこまで見通せてしまうのなら、このゲームをわざわざ遊ぶ必要はない」
 と考えてしまい、ほとんどのゲームを遊ぶ気をなくしてしまうというのがメタ最善手問題です。ただのお年寄りという気もしますが(笑)。


■余談
 それにしても、人の心を掴む要素を多種多様に含んでいることにおいて、麻雀というゲームは実に優れています。1、最善手は難しくてわからず、2、乱数が導入されており、3、賭けを主眼としており、4、意図的に最善手以外の選択肢を選ぶ戦略があり、5、ドラマ性があります。驚異的なデザインだと思います。(といっても僕は麻雀はやらないんですけど)。


■目次へ■